2016/3/11 名古屋ウィメンズマラソンまであと1日
NAGOYAを彩る女性ランナーたち
C野口みずき
(シスメックス)
“ハーフの女王”から印象を変え続けてきた野口
最後の五輪選考レース。どんな色鮮やかな走りを見せてくれるのか

「オリンピックを目指すのは、リオが最後になると思います」
 1月末の大阪ハーフマラソンに出場後、野口みずきはこう明言した。
「名古屋が最後の選考レースになりますが、ベテランらしい走りをしたい。昔とは違うので、以前のようにガンガンいかず、落ち着いてレースの流れを見て、経験を生かして走りたい」

 ランナーとしての印象が、ここまで変わってきた選手も珍しい。
 最初は“ハーフの女王”だった。99年当時、持ち記録がなかった野口を招待した犬山ハーフに出場したのがきっかけで、札幌国際ハーフ、世界ハーフ(2位)と、活躍のステージを一気に上げていった。
 01年のエドモントン世界陸上に1万mで出場。小柄な身長からは考えられないダイナミックなストライド。トラック選手の道を進むのか、という見方もあったが、当時の藤田信之監督らがその方向性を否定したこともあり、“ハーフの女王”のイメージは変わらなかった。
 ちなみに渋井陽子、山中美和子とは同学年で、同じ01年の世界陸上マラソンで渋井が4位、世界クロカンで山中が4位、世界ハーフで野口が4位に入り、50年に一度あるかないかの出来事だと感じた。

 野口の初マラソンは、世界陸上翌年3月の名古屋国際女子。レース前に、当時渋井が持っていた初マラソン世界最高(2時間23分11秒)を破ると宣言するなど、勝ち気な面を見せていた。優勝したが、風が強かったこともあってタイムは2時間25分35秒。マラソンでは渋井か、という印象もあったが、野口はそこから“マラソンの女王”への道を突っ走る。
 翌03年1月の大阪国際女子で2時間21分18秒、今も残る国内最高記録(all-comers record)で優勝すると、同年のパリ世界陸上で銀メダル。04年アテネ五輪代表を決めると、翌年の五輪では金メダル。頂点に駆け上がった。05年ベルリン・マラソンでは2時間19分12秒のアジア記録。すべてのレースで“パーフェクト”の結果を残した。

野口みずきのマラソン全成績
回数 月日 大会 順位 日本人順位 記 録
1 2002 3.10 名古屋国際女子 1 1 2.25.35.
2 2003 1.26 大阪国際女子 1 1 2.21.18.
3 2003 8.31 世界選手権 2 1 2.24.14.
4 2004 8.22 オリンピック 1P 1 2.26.20.
5 2005 9.25 ベルリン 1 1 2.19.12.
6 2007 11.18 東京国際女子 1 1 2.21.37.
7 2008 8.17 オリンピック dns dns
8 2012 3.11 名古屋ウィメンズ 6 5 2.25.33.
9 2013 3.10 名古屋ウィメンズ 3 2 2.24.05.
10 2013 8.10 世界選手権 dnf dnf

 マラソンは2年間走らず、07年11月の東京国際女子マラソンに臨んだ。海外レースに出場する予定もあったが、故障で見送った。しかし、その故障から復帰する過程でフォームのバランスを矯正したり、筋力アップしたりして以前よりもスケールアップして復帰した。東京国際女子は前半、同学年の渋井と並走。どちらも後ろにつかない意地の張り合いだった。
 終盤で独走に持ち込んだが、35〜40kmは登り坂のあるコースにもかかわらず大会史上初めて17分を切る16分56秒だった。
「自分しかできないトレーニングを、ほぼ100%やってきた自信があったので、“大丈夫、大丈夫”と暗示をかけて走っていました」
 東京国際女子マラソンの優勝記録は2時間21分37秒。01年大阪国際女子の国内最高には惜しくも届かなかったが、コースの難しさを考えれば、野口の力が6年前より上がっていることは明らかだった。
 野口本人は当時、「気持ちの充実度が上回っている」と話している。北京五輪での女子マラソン初のオリンピック連覇。日本中の誰もが、それを信じて疑わなかった。

 “ハーフの女王”だった頃は、その後への期待を感じさせた時期。“マラソンの女王”だった07年までは、パーフェクトな結果を残した時期だった。だが、08年の北京五輪欠場以降は下り坂に入った競技者に何ができるか、を示し続けてきた。
 北京五輪欠場の原因となった左脚座骨付着部の肉離れは、1年経っても快方に向かわなかった。新たなリハビリトレーニングを導入し、地道な運動を毎日、4時間も5時間も繰り返した。そうしてたどり着いた4年半ぶりのフルマラソン。
 12年ロンドン五輪選考会の名古屋ウィメンズで6位(2時間25分33秒)に入り、五輪代表入りはできなかったが、日本中に感動の渦を巻き起こした。プレスルームで涙を流した記者も多かった。
 翌13年の名古屋ウィメンズで3位(日本人2位)に入り、モスクワ世界陸上代表入り。モスクワは脱水症状で途中棄権に終わったが、五輪&世界陸上を9年ぶりに走った。当時35歳。世界すべてを探せば前例はあるかもしれないが、日本では史上初めての快挙。野口は“復帰の女王”になった。

 だが、14年大阪は右大腿部の疲労骨折で欠場。その後も、あちこちの故障を繰り返し、今回の名古屋ウィメンズがモスクワ以来、2年半ぶりのマラソン出場になる。
 筆者の11年の取材に対しては、すでに「全盛期だった頃」と、自身の体力が以前よりも衰えていた自覚を持っていた。座右の銘も「走った距離は裏切らない」から「努力は裏切らない」に変更した。
 その状態でも日本代表に入る走りができたが、35歳を過ぎてさらに「疲労が抜けにくくなり、そこから来る故障」(野口)に苦しめられるようになった。
「距離は1カ月で1000kmちょっとに減りましたし、スピードも昔のように上げられなくなりました。400 mだったりショートインターバルはまだまだ走れる感じがありますが、ロングインターバルは昔のように行きません」

 だが、今の野口に悲壮感に近い雰囲気はない。北京五輪後の方が、故障に対して心が折れそうになった。折れそうになっても、なんとかもがいて続けていた。
 それがモスクワ世界陸上以降は、身体的には決して以前よりも良い状態ではないが、精神的にはもがいている感じがない。
「レースに出られなかった時期もありましたし、やめろと言われたこともありました。でも、自分でもよくわかりませんが、リオ五輪まではとこだわって、やめるもんかと思い続けていました」
 4年前は必死にもがいて“復帰の女王”の称号を得た。その意思の強さが野口らしかったが、今の野口は走り続けることにもがいていない。どんなに故障が多くても、リオ五輪に挑戦することが彼女にとって自然なのだ。
 16年名古屋ウィメンズで代表になる快挙を演じてくれたら、野口は“自然体の女王”になる。


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